充実認定
株式会社もずくとおはぎは『人生の充実を追求するために存在する会社』です。
そして、これがただの理想論や夢物語にならないように、5人全員が『各々の充実とはどういうことなのか』をお互いに理解して、実現しようと働きかけあっています。
1対4が5パターン存在しているイメージ。
もちろん、5人が同時に充実を迎えるなんてことは起こりえません。なぜなら、ある場面の瞬間に充実を設定してる人もいれば、何かの継続性に充実を設定してる人もいれば、何かを積みあげた先のどこかに到達することを設定している人もいるから。
なので、誰かが先に充実にたどり着いたり、充実を感じる状態になっても『あいつばっかり先に』みたいな不毛な嫉妬は生まれないわけです。
むしろ、先に充実を感じた側は他の誰かを引き上げようとする。
手を差し伸べる。
伴走する。
充実なんて自分一人では手に入らないんです。
到達するまでのプロセスも、到達したときに分かち合うのも、必ず誰かが絡む。
この構造を理解して行動に移せば好循環が発生するのは必然であり、人と組織の本来の在るべき姿じゃないですかね。
では、
充実していない状態を3つに分類してみる。
①ある程度は充実しているが、カンペキではない⇒充実度80%
②充実を感じることもあるし、不十分を感じることも一定数ある⇒充実度50%
③全く充実していない⇒充実度0%
もちろん、充実っていきなり100%にはならない。グラデーションで段階的に積み重なっていくものだし、その途中にはいろんな未到達のカタチがある。
たとえば、充実度80%。
ある程度は満たされてるし、自分のやってることに納得もある。けれど、どこかに小さな不一致や引っかかりがあって、完全に満ちているとは言えない状態。仕事の成果や人間関係が整っていても、「これで本当に自分らしいのか?」とふと立ち止まるような瞬間が混在しているゾーン。
次に、充実度50%。
充実してる瞬間もあれば、モヤっとする瞬間も同じくらいある。行ったり来たりを繰り返していて、気持ちもパフォーマンスも安定しない。これは案外つらい。浮上しかけた瞬間に何かが崩れて、また立て直す。その繰り返しに疲れてしまう人も多いゾーン。
そして充実度0%。
虚無。
充実の真逆は私の範囲外なので、そっち系の専門家にチカラを借りてください。
あなたは、今どのあたりにいますか?
そして、それを「どうしたい」と思っていますか?
真剣に考えたことある?
充実していない──そう感じること自体は、特別なことじゃなくて、ただ、その感覚を口にする人の多くが、「じゃあ自分にとっての充実とは何か?」を真剣に言語化したことがない、という矛盾を孕んでいる。
輪郭のない理想には、当然たどり着けない。
地図を持たずに旅に出るようなものだ。進んでいるのか、迷っているのかさえ分からないまま、たまに立ち止まる。彷徨う。そして、必然的に「なんか違う」とだけつぶやく。
しかもそのままでいると、「満たされていない理由探し」が習慣化する。
仕事が悪い、環境が悪い、人間関係が合わない。充実していない理由を、外側から切り取るほうがずっと簡単だからだ。でも、それでは永遠に「自分のカタチ」にはたどり着けない。
大切なのは、自分が何を満たしたいと思っているのかを見つめること。 “充実していない”のではなく、“充実の定義がまだないだけ”のかもしれないという前提に立つこと。
感覚的だったり、曖昧でもいい。
でも、自分にとっての「いい感じ」を一度でもすくい上げた経験があるなら、それを手がかりにできるはずだ。自分の輪郭を知ろうとする動きがなければ、誰と出会っても、何を手に入れても、結局は「何か足りない」で終わる。
だからまずは、自分にとっての充実を、定義してみること。
それがスタートラインに立つということでもある。
たどり着きそうな予感が
充実していると感じられるかどうかは、「いま何を根拠に手応えを得ているか」で決まる。
たとえば「まだ到達していないけど、確実に進んでいる」という感覚。ただの希望ではなく、自分の行動や判断の積み重ねに裏打ちされた予感。この予感が持てている状態は、すでに充実のプロセスに入っている。つまり、結果が出ていなくても、見通しと納得があるなら、充実していないとは言えない。
逆に、なぜか不満がある、何かが物足りない。そもそも自分にとっての充実とは何かが不明確。これでは、たどり着けるはずがない。過程の意味も見出せず、ただ時間に押し流されていく。
賞賛を浴びたとき、売上が跳ねたとき、誰かに認められたときのような、『瞬間』に充実を見出す人もいる。
その刹那に強烈な充実を感じ、十分に味わった後は余韻に浸ることも無く、次の充実に向かって自然と歩き出す。その場の興奮はひとつの本質的な満足のカタチ。
一方、習慣化された選択や継続、変化への対応といった『過程』のなかに充実を見出す人もいる。 派手さはなくても、自分で選んで、自分で進んでいるという自覚があって、 この納得感は結果よりもはるかに持続性や再現性がある。
つまり、実は充実とは『瞬間』でも『過程』でも成立していて、どれか一つに偏ってもいいんじゃないか。重要なのは、いま自分がどのフェーズにいて、何を好み、なぜ充実を実感できているのかを理解していること。
そこに自覚があるから、充実は一過性の感情ではなく確かな状態として構築できる。
あなたはいま、その予感がありますか?
ガキじゃないんだから
100%充実してる状態を「全方位から満たされている」という表現にしてみる。
すると、社会に出て、ある程度の経験を積んできた大人ならわかるはず。そんな全知全能感みたいな充実は、現実にはほとんど起こらない。むしろ、「全てが揃っていなくても、揃っていないなりにやれている」「今は未完成でも、方向性は見えている」。
こういった手応えこそが、大人が感じる『リアルな充実』じゃないだろうか。
何もかも満たされた時だけを「充実」とみなすなら、ずっと不足の中にいることになる。
それは、人生全体を不満足の塊として扱っているようなもの。
全部揃ってからじゃないと「充実」と呼んではいけないのだろうか?
現時点でいくつか満たされているなら、それはもう兆しであり、その兆しに納得しているなら十分。たとえ残りの課題が山積していても、今この瞬間に味わっている安堵や充実感を否定する理由はどこにもない。
人に見せるための完成された充実なんていらない。自分にとってリアルであれば、それで成立している。
充実はゼロかヒャクの2パターンしかないわけではない。
その間にも、ちゃんと段階がある。
揺らぎながら、疑いながら、伸びながら、整えながら、そのプロセスごと充実なのだ。
ということは、
今のあなたは「充実してる」って認めてもいいんじゃない?
社会の最前線にいる、いい大人なんだから。
ガキじゃないんだから。
さっさと自分の充実を隣に人にお裾分けしてあげたら?



