ピークとは?
過去最高傑作という現在地と、更新されていく頂点
大学を卒業し、何者かになろうとビジネスの世界に飛び込んでから、およそ30年という歳月が流れた。もうすぐ50歳という大きな節目を迎えようとしている。
NHKの大河ドラマ『豊臣兄弟』では、同年代の織田信長が本能寺の変で討たれた。野望の象徴でもある男が。
現代のビジネスモデルに当てはめれば、「成長期」や「安定期」を終え、いかに美しく「衰退期」へと着地するかを設計するフェーズなのだろう。しかし、改めて自身のパフォーマンスを棚卸ししたとき、内部的な確信は世間のカレンダーとは明確に乖離しているように感じている。
明らかにこれまでのキャリアにおける「過去最高傑作」であり、これは感傷的な自己肯定ではなく、極めて冷静に判断した現実的な能力の現在地。
20代の頃に持っていた、何日徹夜しても削れない(しかも即回復してしまう)無尽蔵の体力や、無謀なリスクに飛び込む青い勢いは、たしかに失われた。だが、そんなものはビジネスの本質的な武器ではない。
約30年の膨大なトライ&エラーの末に私が手に入れたものは、「異なる出来事でもパターン化して処理する再現性」と「意思決定の純度」だ。
たった3年しか経っていないが、経営者として正解のない暗闇の中で自らリスクを張り続けてきた結果、致命傷になるリスクと取るべきリスクの境界線を瞬時に嗅ぎ分ける嗅覚が備わった。複雑に絡み合う事象の前でも、リソースの最適配分を瞬時に計算し、感情のノイズを排除して最短距離で解を導き出せる。
そもそも「ピーク(頂点)」とは何だろう。
それは、人生のどこか一箇所に固定された、一度きりの不動の山頂などではない。私たちは年齢を重ね、ステージを変えながら、その時々にふさわしい新しい種類の「頂点」を自分の中にいくつも形成していく。
経験というデータが蓄積されればされるほど、仮説検証のサイクルは高速化し、世界を見る解像度は上がっていく。
つまり、私は今、紛れもなく一つのピークに立っていると確信していると同時に、この先もずっと、自分自身の最高傑作という名の頂点を「更新し続けていく」という合理的な手応えに満ちている。ピークとは過去を懐かしむための記念碑ではなく、変わり続ける現在地そのものなのだと思う。
去る者の美学、残る者の熱
私自身はそうやって、ここから先のビジネスや人生の展開に、静かだが確かな熱を帯びた期待を抱いている。やりたいことがたくさんある。
周囲を見渡せば同世代の中にも未だにギラギラとした野心をたぎらせ、市場を睨んでいる連中もいて、彼らと話していると、互いのチカラや現在地を確かめ合うような心地よさがある。
しかし一方で、私と同じようにバブル崩壊後の焼け野原からスタートし、泥臭く最前線を走ってきた友人たちの中には、「後進への権限委譲」や「役職定年を見据えたソフトランディング」といった、ビジネスパーソンとしての「終焉」をごく自然に口にする者も増えてきた。
彼らが第一線を退いた後の人生が、退屈で物足りない「隠居生活」になると言いたいわけではない。彼らはきっと、趣味や地域コミュニティ、あるいは家族との時間の中で、豊かで充実したセカンドライフを築いていくだろう。それもまた素晴らしい人生のカタチだ。
彼らのその穏やかなスタンスに触れるとき、心からの労いと深い敬意を感じている。「本当によくここまで重い責任を背負って戦い抜いてきたな」という純粋な感嘆と尊敬。
リーマンショックなどの経済危機をくぐり抜け、上からのプレッシャーと下からの突き上げに耐えながら、彼らは間違いなくこの国の経済を回し、それぞれの場所で時代を築き上げてきた。その30年間の重みは、計り知れない。
日本のピラミッド型組織や定年という制度設計を前提とすれば、50代に入ってキャリアの出口戦略を練り始めるのは、極めて理にかなった行動である。すり減った心身を休ませたいと願うのも当然だ。
だから、彼らが少しずつ肩の荷を下ろし、組織における役割を静かに終えようとする選択を、否定するつもりも責めるつもりも全くない。社会というシステムの中で自らの役割を全うし、秋の葉が色づいて落ちるようにフェードアウトしていく姿は、一つの美しい成熟の形であるとすら思っている。
誰かのシナリオで幕を引くのか
ビジネスの現場にいると、私たちは決して孤立して生きているわけではないことに気づかされる。
第一線から退く準備を始めている同世代からは、組織人としての引き際のリアルや、執着を手放すことによる心理的変化という貴重な一次情報を得た。
AIなど新しいパラダイムをかけ合わせてビジネスを構築するビジネスシーンの最前線からは、既存のビジネスモデルを陳腐化させるような強烈なゲームチェンジの視点をもらった。
さらに、実務のコアを担う中堅層とは具体的な戦略論やマネジメントの壁について、熱を帯びた意見交換を重ねてきた。
私自身も、これまで培ってきたネットワークや資金、失敗から得た教訓というアセット(資産)などを、出し惜しみすることなくアウトプットし、世代を超えたリアルな情報交換と温かい互恵関係があるからこそ、今の自分が在る。
「一般的なレール」に乗ることも、「環境」という変数に合わせて自分のポジションを変えることも、それぞれの生存戦略として完全に正しい。
だからこそ、社会のルールや一般的なキャリアパスが「50代からのスタンダード」にフラグが立った時、その「自然な流れ」に本当にそのまま身を任せてしまっていいのだろうか。誰かが用意したシナリオ通りに波風を立てずにフェードアウトしていくこと。それが本当に心から望んだ選択なのだろうか。
もし、まだ燻っている熱があるのだとすれば。
本当のピークは、これから訪れるとしたら
ビジネスシーンという枠組み、あるいは「今の会社に所属する期間」という定規で測れば、残された時間はあと十数年かもしれない。 しかし「人生」という広大なスケールで捉え直した時、我々にはまだ20年も、あるいは30年もの膨大な時間が残されている。そして当然ながら、その時間の大部分において、私たちは間違いなく「社会」の中に存在し続けるのだ。
社会に出てからの30年間で、どれだけの壁を越え、どれほどのものを成し遂げてきたか。それと全く同じだけの時間が、まだ目の前に広がっている。この事実を前にして、早々に社会との関わりを薄め、店じまいの準備を始めるのは、我々の存在スケールに対する大いなる矛盾ではないだろうか。
これまで長い時間をかけて蓄積してきた、圧倒的な実務経験、専門知識、人脈、そして何より、酸いも甘いも噛み分けた精神力という名の「人的資本」。これを、単なる組織の出口戦略として減価償却していくのではなく、もう一度、社会というフィールドに全額再投資してみてはどうだろうか。
「第一線を退く」というのは、決して退屈な隠居生活に入ることを意味しない。むしろ逆だ。会社が用意した役職や、組織のしがらみという重力から解放されたとき、純粋なあなたの「個」としての本当の面白さが立ち現れ、社会と新しく、そしてもっと自由に交わり直すことができるはずだ。私たちには、社会に対してまだやれること、企てられることが山ほどある。
社会の平均値や一般的な常識は、あくまで表面上のマクロな統計データに過ぎない。私自身はこれまで蓄積してきたアセットをフル稼働させ、残された時間を最大限に活用して、明日もまた自分自身の最高傑作を現実的に更新していくつもりだ。
私たちはいつでも、自分の意志で、社会の中に新しいピークを創り出すことができる。その静かな温かさが、隣にいるあなたの心にほんの少しでも燃え移ることを願いながら、最後に。
あなたにとっての「ピークとは?」



